孤高

2004年1月29日 個人的観念理論
…どうも人様の多くは、「独り」というのを寂しくてとても辛いものと感じているらしい。
傍らには愛する異性とか、意気投合できる仲間がいないと、自分の弱さが露呈してしまい、耐えられないようなのである。

ところが一方、自分自身はというと。
…多くの人といる時ほど、逆に孤独感が募る体質の人間だったりする。

有象無象の、いるのかいないのかわからないような自分の存在ってのが、どーにも気分が悪い。
(耐えられないわけでもないのだが)

そういうのは、その有象無象の…他人をかき分けて自分を目立たせることによって、解消するのが道理なんだろうが、…どうもその「かき分ける」ってのにうんざりしているのが実態だったりもする。

餓鬼の時分は、無理にそういう行動しようとして空回りもざらだった状況もあり(っつーか悪化の一途…)、そのうち、それそのものへの価値をほとんど失ってしまった感もある。

また仮に、そういう中で目立つ存在というのも、実はあまり気分が良くない。
…なんだか相手に、都合のいい先入観やら期待やら、または他の心情で自分を掻き回されている感じになるからである。

もともと、人のペースに合わせて集団で行動するのを良しとしない、アウトローな一面(響きだけカッコよく…)もあるので、むしろ孤独という存在は幸いと考えているのだ。

人と一緒じゃないと寂しくてたまらない…そんな人を見ていると哀れ極まりないものがある。
自分の無力・無能さを、他人で埋め合わせようとしているイメージすら感じる。
寂しさというのは、そういうものの裏返しと解釈すべきだろう。
しかし多くの人といる分、人の考えに、人の価値観に、人の評価に振り回され、余計に自分を失うことも多分にある。

まあ…。
仲間は確かにいい。恋人もいるのならいるに越したことはない。
悪いことはない。良いことの方も多いだろう。
そうして仲間が多くいて寂しさが紛れる分、見えないところでいつの間にか、自分に多くの犠牲に強いてたとしても。

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